AND OR

#navi(でんでんむし)


  • コメントや情報などがございましたら、どうぞこちらへ

藤沢周平記念館が2010年4月29日開館

  • 鶴岡市が馬場町の鶴岡公園内に建設する。鉄筋コンクリート2階建て。展示室(約200平方メートル)や収蔵庫(約178平方メートル)など。常設展示は,(1)庄内の自然風土に代表される作品世界…(2)藤沢文学の魅力…(3)藤沢の人となり…の3部構成。(2008-04-13)
  • ほぼ庄内神社境内にあるようだ。鶴岡城址,市役所,旧藩校致道館,慶応大学生命科学研究所,致道館博物館に隣接するベストロケーション。
  • 来年,開館を記念して鶴岡で研究会を開催し,訪問する予定だが,待ち遠しい。
  • 研究会はだいぶ遅れたが,2013年3月慶応義塾大学鶴岡キャンパスで開催された.

風の果て

  • wikipedia (NHK木曜時代劇) 2007-10-18から 20:00~20:45 全8回。出世街道を走り始めた桑山又左衛門を佐藤浩市が、婿入り前、上村隼太の青春時代を福士誠治が演じるという。
  • 「風の果て」 文春文庫 p. 27-28
    • 「・・・加治郡に兵庫堰を作って田畑四千五百町歩、黒川郡に太郎堰を作って三千町歩の開墾が行なわれた・・・」

太蔵が原に先行する加治郡や黒川郡のモデルが実在するならば

  • 地名にかこつけて、あること、ないことを書いてみます。
  • 北蒲原の水田地帯、旧 加治川村(現 新発田市)の西部と紫雲寺町は紫雲寺潟の干拓によって出来た開墾地です。紫雲寺潟には加治,中条,黒川(現 胎内市)が連接していました.今から280年ほど前のことです。
  • いっぽう、海坂、今の鶴岡を流れる赤川の治水は20世紀後半の事業です。
  • 鶴岡の青龍寺川、とりわけ大道堰(約340年前に造られた農業用水路)がモデルであろうといわれていることは承知しています。しかし、その規模はとても小さく、「太蔵が原」のスケールを直接的に想像せしむるには至らない感じです。
  • 「太蔵が原」は地形や史実と合体した創造物かもしれない、青龍寺川を補完するもう一つのモデルがあるかも知れないと思います。
  • 藤沢周平も鉄道(羽越線)で加治川の鉄橋を渡り、その流域を車窓から見たとき、より大きな「太蔵が原」をイメージしたのではないでしょうか。
  • そして、加治も黒川も現存する地名ですし、「太蔵が原」のスケールとほぼ合致するのです。
  • 太蔵が原に先行する加治郡や黒川郡のモデルが実在するならば・・・という妄想にふけってみました。

太蔵が原・加治川流域対照表

事 項小説「風の果て」加治川周辺の史実
藩 名海坂藩新発田藩
開墾干拓竣工1725年, 1665年1734年 (主に6代藩主 溝口直治(1707年-1732年)の時代)
地 名加治郡と黒川郡加治村(注1)と黒川村(注2)
山 系大櫛山の麓大峰山と櫛形山の麓(注3)
呼 称太蔵(注4),太蔵が原胎内(注5),胎内平(注6)
規 模4500+3000町歩(注7)1674町歩~3111町歩(竣工時期の定義により相違)(注8)
事業者羽太屋重兵衛、万年(廻船問屋)竹前権兵衛・小八郎兄弟(鉱山業者)
技 師田口半平井沢弥惣兵衛為永 (徳川幕府新田開発奉行, 紀州流創始者)
アリバイ性羽越線(中条,金塚,加治,加治川仮乗降場(花見のため(注9) ), 新発田各駅沿線)
1966, 1967年連続水害 (7・17下越水害, 8・28羽越水害)は新聞・テレビで繰り返し報道されたはず
時期的整合性1985年出版/藤沢周平58歳1966, 1967年水害時 藤沢周平39歳,40歳
年代考証1775年 安永四年,(楢岡図書回顧当時現在)
1760年 宝暦十年,(15年前) 長四郎堰開通,田地三千町歩
1725年 貞亨二年,(50年前) 加治郡兵庫堰開通,田畑四千五百町歩
1665年 寛文五年,(加治郡の60年前) 黒川郡太郎堰開通,田畑三千町歩
  • (注1) 藤沢周平28歳のとき,金塚村と合併,加治川村と改称.
  • (注2) 燃える黒い水として朝廷に献上された石油が「日本書紀」に記され,黒川油田が古くから知られていた.
    • 詳しくは国土交通省 北陸地方整備局 飯豊山系砂防事務所 をご覧ください.以下に一部引用します:
      「日本書紀」によれば、天智天皇の7年(668年)に、「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」と記述されています。これは燃える水すなわち臭水(くそうず)と呼ばれていた原油を天皇に献上したことを記したものです。・・・現在でも黒川村下館の塩谷地内には油坪が多く残っています。・・・
  • (注3) 櫛形山脈は日本最小の山脈(南北14km,主峰は櫛形山,標高568m).春の大峰山(399m)は山桜が美しい. ここ橡平の山桜は昭和9年文部省指定天然記念物.
    ここではあくまで名称に関する類似性に注目した.大櫛山の山容と太蔵が原の描写は月山と弥陀が原かと思う.
  • (注4) 文春文庫p. 160には「太蔵が原は,このあたりでは単に太蔵と呼ばれているらしかった」とある.胎内川流域も当地では単に胎内と呼ばれている.それに「タイゾウ」と「タイナイ」という音韻、語呂にも共通点がある.大事なものを(一定温度で)保管する「蔵」と胎児を育む「胎内」という意味にも互いに通じるものを感じる.
  • (注5) 伏流水河川 胎内川流域
  • (注6) 1972年藤沢周平45歳のとき,胎内平にて昭和天皇皇后両陛下をお迎えして第23回全国植樹祭開催.当時黒川村村長 伊藤孝二郎は全国市町村会副会長を務めており,羽越水害からの復興、農村近代化を記念して開催された.
  • (注7) 3000町歩=約5.5km四方の面積.100町歩=1平方キロメートル.用水路,農作業道路を考えると少なくとも6km四方に該当する.280年前の紫雲寺潟は縦横4km×8kmであったという.
  • (注8) なお,加治川には内の倉ダムがあり,加治川沿岸農地7400 ha = 7400町歩 = 74平方km の灌漑と新発田市の上水道を供給する.
  • (注9) 当時加治川両岸6千本の桜(染井吉野)は長堤十里,東洋一と言われ,花見時には観光の舟下りもあった.

JPEG版 ,pdf版

★以上の記述は加治川右岸についてである.加治川流域としては左岸には旧 新発田城下北西部から,新潟東港,豊栄に至るまで連続した水田地帯である.そのどこまでが加治川治水で造成された田畑か私には分からないが,紫雲寺潟は主に右岸流域だったようだ.なお,加治川分水路ができるまで,加治川本流は草加付近の砂丘で西に流れを変え,阿賀野川に合流した.今でも新潟競馬場の北側,島見町付近に新潟交通のバス停「加治川」があり,そこを流れる小川を「加治川」という.また,阿賀野川に接して「新潟県派川加治川濁川取水場」がある.
☆(あのころは1964.6.16 新潟地震,1966.7.17, 1967.8.28と自然災害がつづいた.日付の偶然にも何かおびえていた.)

藤沢周平が加治,黒川を知りえた可能性

藤沢周平が縁もゆかりもない農村地帯の加治,黒川,胎内あたりのことを見聞したり調べたことがあったとしたら・・・
それには何らかのきっかけが必要であったことと思います.*1

  1. 【国鉄 羽越本線】 当時,山形県鶴岡と東京の往来には国鉄 羽越本線が交通手段だったと思います.というか,それ以外には自家用車を除いて存在しなかったと思います.鉄道で鶴岡―新発田は113km,新発田―上野は341kmです.7時間ほどかかったでしょうか.
    ・・・・(1991年,平成3年に庄内空港が建設され,現在は庄内―羽田1時間です.) 
  2. 【加治川の桜】*2 東洋一と謳われた長堤十里,6千本のソメイヨシノ.この桜並木がとっかかりでしょうか.
    花見のころだけ設置される臨時停車場もおかしいですよね.
  3. 【首振る油井】 むかしの国鉄羽越線の車窓風景では,田園の中で黒い恐竜ティラノザウルスのように首振る油井は奇異な印象だったかも知れません.
    首振り周期は10秒くらいだったかな.
  4. 【日本書記】にあるという献上品「燃える黒水」のことを思い出したかもしれません.
  5. 【タイナイ】 胎内川という風変わりな名前の川を鉄橋で通過し,いつも渇水していることからその名に合点がいったかもしれません.
  6. 【見晴らし】 羽越線の加治川鉄橋を北から南へ渡るとき,乗客は左手の飯豊連峰に別れを告げ,右手前方に,はるか新潟方面に地平線まで広がる新潟平野の始まりを体験する場所です.晴天なら,直線で55km離れた弥彦山(標高634m)も見えます.
  7. 【大水害】 2年連続の大水害,特に2年目の羽越水害は藤沢周平が40歳のときで,山形県でも大きな被害(最上川の氾濫や国鉄羽越本線・米坂線の寸断など)をこうむりましたので,新聞・テレビの報道を目にしたことでしょう.
     このころ藤沢周平は鬱屈をかかえての暮らしであったという.
     なお,加治川決壊の理由として桜の根が堤防を弱体化したためとされ,水害後6千本の桜が伐採されました.加治川の風景は一変しました.様変わりした風景を藤沢周平も羽越線から見たことと思います.
  8. 【天皇皇后両陛下】 その後「オール読物」新人賞受賞の翌年,藤沢周平45歳のとき,天皇皇后両陛下をお迎えしての全国植樹祭の報道を目にしたかもしれません.
  9. 仮にすこし興味をもって羽越線を途中下車したりして村人に尋ねるなどすれば,加治川治水の歴史,大峰山の山桜,日本最小の櫛形山脈など,独特の史実を聞くことができたと思います.
  10. のんびり宿泊したなら,植樹祭で両陛下をお迎えした胎内パークホテルだったかもしれません.そば好きなら,そこにある「みゆき庵」で手打ちそばをすすったかもしれません.
国鉄羽越本線 加治川鉄橋を渡る汽車昔の加治川
加治川堤防決壊による7.17水害油井ポンプ. 昔のは臀部も大きかったし,鉄塔もあった.

藤沢周平がいつ東京に行ったり鶴岡に帰ったりしたのか,どなたか教えていただけたらと思います.乗車時刻,下車時刻まで知りたいです.日付と時刻から,当時の加治川風景を記憶の中で再現したいと思います.

脱線: 万九郎地蔵

  • 太蔵が原の話題からはそれますが,万九郎地蔵の話を聞いたかも知れません.わたしは小学生のとき紙芝居で,あるオランダの話を聞いたことがあります.
  • ある日の下校時,少年のハンスは堤防に小さな穴ができて水が漏れだしているのを見つけました. ハンスは腕で穴の拡大,破堤を防ぎ,その地を守ったという話です.
  • これと似た話が万九郎地蔵として当地に残っています. 本間万九郎は押廻村の加治川農業用水路の樋守(水門番)でした. 文政11年(1828年)6月23日,樋管の詰まりに気付きました. これを解消するため潜水して作業しました. 作業は完了し,川筋4ケ村の水害を未然に防止しました. が,そのとき既に彼の息は途絶えていました. 享年41歳でした. 村人は地蔵尊を建て戒名を清鏡応現信士として万九郎の徳を讃えました. 昭和11年 義芳院清鏡応現居士と改め,地蔵尊を養泉寺に移し,今に至っています.
    (加治川村誌編纂委員会,「加治川村誌」,p.124, 島津印刷,昭和61年による.)

規模,事業者, 技術など

太蔵が原開墾、10km四方に及ぶ加治川治水・紫雲寺潟干拓のいずれも大規模治水事業であるにもかかわらず、両者ともに民間人の私財によって賄われました。この設定も類似していませんか。

  • 海坂藩は廻船問屋 羽太屋重兵衛に資金提供を求めた。羽太屋のモデルは酒田の本間氏であろうことは言わずもがなか。ただし、本間氏の善徳に対して羽太屋の悪徳は逆の設定。
  • 一方、新発田藩では何度も加治川の治水に取り組んでいた。ついに民間人 竹前権兵衛・小八郎兄弟が徳川幕府に治水嘆願書を提出した。幕府はこれを受理し、新田開発奉行、井沢弥惣兵衛を派遣し、竹前兄弟の私財により治水干拓事業が遂行された。
  • 井沢弥惣兵衛は築堤により高所を水路とする画期的な工法、紀州流*3を考案した。これにより中西部日本各地に多い農業用水池を無用とし、周辺田圃への給水と広大な田園整備の両者を可能とした。
飯豊(いいで)連峰より北西側の眺め。
大峰山、櫛形山の左後方が加治川流域の北端にあたる。櫛形山、鳥坂(とっさか)山の後方が胎内川流域。

加治川写真集

私の加治川実行委員会より引用

花見風景両岸がこんな桜のトンネルだった.
6000本×5メートル間隔=30km. 片岸15kmになる.

観光用に市販されたと思しき古い写真が出てきた

正しくこのとおりだった.

加治川流域紫雲寺潟干拓事業(1734年)

  • 加治川築堤はいつか? と思って調べてみた。
  • 当時最新の工法、紀州流が施工された。築堤と川よけ、護岸などの水制工によって河道を直線状に固定した。高い連続堤を建設し、川水を河川敷の中へ押し込めた。
  • (社)農業農村整備情報総合センターによればつぎのとおり。 (リンクが深いのでメモしておきます。)
    • 享保年間、新発田藩溝口直治の時代(1721年以後)。・・・そんなの関係ないけど、会社に入社したとき、同期入社の同僚に子孫の溝口君がいたっけ。元気かな。今でも溝口家の方が毎年新発田を訪れ、ゆかりのお寺等に挨拶をされていると聞いた。その人が溝口くんなら会いたいな。
      • M「Kさんは新潟出身だって?新発田藩って知ってる?」  K「もちろん,私は新発田出身だから」 
      • M「私の何代も前だけど,そこだったんだ」  K「ぎょっ,溝口君とこが私たちの殿様?」
      • M「うん」
    • 加治川の遊水池であった紫雲寺潟の干拓は,加治川と紫雲寺潟を結ぶ境川を締切り,干拓地内の排水を日本海へ落とす長者堀(享保6年西暦1721年、現在の落堀川)を掘削することに始まる。
    • 干拓地の周囲には,西付廻川・東付廻川などの廻し堀が設けられ,周辺の古村からの排水を受けるとともに,用水を新田内に分配する。
    • この廻し堀の用水源は,加治川をはじめとする河川であり,大樋用水路や高山寺江により導水した。溜井を用水源とした関東流の椿海干拓と大きく異なる紀州流干拓の特徴である。
      • 大樋用水路: わたしがこどもの頃は大樋川(おおいがわ)と呼んでいた。大樋川は水深が極めて深く,あちこちに水門があり,危険なため,ここでの遊泳は厳禁であった。
      • 高山寺江: こどもの頃には名前がなく、ただ「川」とか「前川」と呼んでいた。
    • 高山寺(こうさんじ)は集落の名称として現存する。紫雲寺町から新発田城下へ東へ延びる街道づたいに加治川に至るまでの集落名称は、稲荷岡、大中島、釜杭、高山寺、二本木、古川、川尻、押廻。
      • 押廻の上手は上向中条,下向中条を経て上館,いわゆる加治の中心部に至り,もっと上流方向には三日市,早道場(菊水酒造の対岸地区),〆切がある.おそらく干拓前は紫雲寺潟に接する旧 中条町(現 胎内市)の対岸を向中条と呼んだものと思われる.
      • 下越水害,羽越水害となった2年連続の加治川破堤個所は2年とも同一で,北側が向中条,対岸南側が名柄(ながら)という集落であった.(「ながら」は「流れ」が転じたものかもしれない.今は名柄地区は水田地帯のはずれにあたる.加治川の流れが暴れた所だったかもしれない.)
    • クイズです.高い築堤を有する河川が決壊するとき,堤防はどっち側に崩れるでしょうか.
      • A.川の外側に向って崩れる.
      • B.川の内側に向って崩れる.
      • 答えはB.水流が強くなると,堤防壁面を吸いつけるように圧力がかかるので,堤防は川の内側に吸い込まれて崩れ去る.飛行機の翼による揚力と同じです.ひとたび崩れると,今度は逆に決壊個所に猛烈な吹き出し水流が発生するので,丁度その対岸部に強い負圧が働き,対岸部も決壊する.向中条と名柄の両地区で加治川が決壊した事例が該当する.
      • だから堤防は水流にさらされる内側を丈夫に作ることが重要なのです.
    • なお,破堤の原因は堤防の老朽化だけではありませんでした.豪雨に対して,ダムで吸収しようと考えて失敗したのが加治川水害でした.ダムは「想定外の」豪雨に耐え切れず放水し,下流には時々刻々の豪雨に過去数時間ないし数日分の貯水量の放出が加わり,破堤を招いたのでした.
    • 紀州流は 井沢弥惣兵衛為永(1722年新田開発奉行)が創始した治水技術。代表的事業は利根川水系の飯沼干拓(1723)(茨城県)、同じく見沼代用水(1728)(埼玉県)、越後の紫雲寺潟干拓(1734)
  • 地元では「高い所、高い所を探して水路としたそうな」と今も言い伝えられている。この意味が分かりますか?空想や写真だけでは理解できないかもしれません。一見逆説的ですが、水田開発、水稲栽培農業として合理的だという気もします。おそらくこれが紀州流の極意なのでしょう。高い所を水路とすれば、干拓後の圃場に水を自在に引くことが可能になります。貯水池も無用になります。
  • 海坂藩では太蔵が原の開墾を羽太屋重兵衛に請け負わせて新田を開発しました。
  • 江戸時代(徳川吉宗の時代)の加治、新発田溝口藩では紫雲寺潟干拓で
  • ふじの井酒造
  • 紫雲寺潟(塩津潟)年表
    • 1732年 幕府は塩津潟干拓地を全部没収し、竹前権兵衛に500町歩を与える。
    • 42の村ができ、1674町歩の田畑ができ、米は約2,550トン (玄米1石=150 kg換算で1万7千石) の収穫を得たそうな。
    • 面積あたりの生産性としては現代日本水稲収穫力の4分の1。

竹前権兵衛

引用元:朝日日本歴史人物事典の解説。 生年: 延宝7 (1679) 没年: 寛延2.3.3 (1749.4.19)

  • 江戸中期の越後国(新潟県)紫雲寺潟新田の開発者。名は屋栄。信濃国米子村(須坂市)の人。幕府領滝山(同市米子町)硫黄運上場を請負い,享保4(1719)年きわめて純度の高い鷹目硫黄5000貫を幕府に上納して与えられた金1666両余を元手に
  • 紫雲寺潟干拓を計画,弟小八郎を願人として同11年幕府へ出願。江戸の成田佐左衛門,柏崎の宮川四郎兵衛の協力を得て工事を開始,落堀を浚渫,また紫雲寺潟へ流入する境川を締め切った。しかし新発田藩の反対および潟縁の村々から争論が起こり,小八郎はこれらの問題解決に奔走中,14年3月に他界,兄権兵衛が事業を継承した。
  • 15年12月新発田藩は阿賀野川の松ケ崎悪水吐で排水する工事を完成,17年春には洪水で境川締め切り堤防が破れ,落堀の川床が3.6m余も削られて潟水が急速に減少し,はからずも3分の2が干潟となった。
  • 権兵衛はさらに残りの湛水地干拓を計画したが,幕府は潟を全面収公,権兵衛には無地代で500町歩を与えた。権兵衛はこのうち150町歩を宮川に,50町歩を成田に分かち,残りを開発して米子,中島,竹島,苔実の4新田村を立て,その庄屋となった。(米子から苔実までは6kmにわたる.)
  • 幕府は残る1437町歩を後願人を募って開発させた。 参考文献『加治川治水沿革史』『新潟県史』(小村弌)

加治川水害

  • (独)防災科学技術研究所 自然災害情報室 による.1966年7・17,1967年8・28新潟県加治川の破堤氾濫など
  • 1966年の水害で同級生の家と作業場が流失した。翌年,新築した家と作業場がそっくり流されてゆくのを目撃した。むごい光景に体が震えた。
  • 加治川の堤防決壊による冠水は,西側は阿賀野川の堤防を切り,東側は落堀川の堤防を切って日本海へ排水した。

    1967年加冶川破堤氾濫の空中写真
  • Click the image for a larger view
  • 左図中,加治川東側に「潟」と分類してある部分は約3百年前のことであり,加治川分水路築堤以後は水田となっている.西側の「潟」は現在も福島潟である.
  • 右図中,中川小学校上の白十字が我家。
  • 2012年7月,西日本,九州地方では「これまでに経験したことのなかったような」豪雨があり,甚大な被害を発生した.加治川水害のときも雨が数日間続き,1時間110ミリの豪雨もあった.(気象庁の記録にないので,地方の局地的な数値のようだ.)
  • 1時間100ミリの雨がどんなものか体験する施設とか移動できる体験バスを作り,防災に役立てて欲しいと思う.地図と河川の流域面積や排水能力等の情報が提供されれば,そのような豪雨によって河川の水位がどのように変化するかは小学校の理科や社会科の教材として理解することも容易であろう.今や市街地の多くは舗装道路で覆われており,排水能力は十分ではなかろう.そこに豪雨があると,どのような事態が起こり得るかを推測することは容易だと考えられます.

映画 蝉しぐれ を見ました 2005-10-01

  • いい。封切初日、映画の日で半額、土曜日。混んでるかと思ったら、がらがら。席はよりどりみどりでした。
  • 文四郎が、切腹を命じられた父、助左衛門と最後の面会をする場面には新潟市横越の北方文化博物館(伊藤邸)の大広間が使われた。降雪や田んぼの風景は十日町市松之山で撮影されたと紹介している。(2005年10月7日新潟日報より)
    • じつは昨年映画を見たときに違和感を覚えたシーンの1つが降雪風景でした。鶴岡の雪にしてはやわらかすぎる、ぬくもりがある、どこか違う場所のようだと感じました。頚城地方(かな?北陸線で直江津近辺の山間地)の雪とか、富岡ホワイトに近い印象でした。見終えてから、シーンを解説しているポスターを見て、やっぱりと納得しました。でも、映画封切直後でしたから、一度は書いた感想を削除しました。

人口とか、食べものとか

  • 庄内藩・・・「義民が駆ける」、76ページに「天保の大凶作*4には、翌年二月藩は合計一万二千俵のお救米を領内に施し、また(にしん)十万八千八百四十四本、塩鮭八百本を配り・・・」とあるから、ニシンも江戸後期にはごく普通に流通していたようですね。もっとも海坂藩は北の日本海ですから、昔から食べていたかもしれません。しかし、ニシンの数字が細かい。記録にあるのでしょうから、目方でなくて一匹ずつ数えて配給したのですね。1戸に2匹とか?
  • 米沢藩・・・元禄五年(1692年)、米沢藩の人口は 132,000人ほどで、うち武士とその家族が31,000人余、農民は88,000人余だったと記されています(「漆の実のみのる国」169ページ)。残りの13,000人が商人、職人、武家雇人、神官僧職とその家族でしょうか。家臣団 5,000人という記述がよく登場しますから、武家の平均所帯人数は6人程度でしょうか。
  • 米沢藩・・・天明三年(1783年)の凶作時、米沢藩は救済のため米24,525俵、麦24,000俵を調達、配給した。同時に主食の規準量を武家、町家は1人1日玄米3合5勺、百姓は耕作時と収穫時の4ヶ月は5合、その他の8ヶ月はほかと同じと定めた。(漆の実のみのる国 (下) p. 107-108)
    • これから計算すると、凶作時で節食するとしても米1俵は100日分の主食であり、年間1人あたりの食用米穀消費は3俵半(現在の3俵=180kg)になる。
    • 紫雲寺潟干拓の歴史資料を当てはめてみると、おおよそ次のような換算ができる。年間1人当りの飯米消費量を1石 (150kg) と仮定すると、1人分の飯米生産には1反歩の圃場面積が必要という勘定になる。
    • こどもの頃、わたしの家では飯米(餅米を除く)を確か1人2俵と計算していたと思う。年の暮れに非農家の親戚などへ3か月分だか半年分だか、米を送るために父が集計していたものでした。確か、これを貨物列車のチキ扱いで送るのでした。また1俵の基準量は60kgでしたが、出荷時には63kgを詰めていました。これは米の出荷検査を確実に順調に進めるための割り増しでした。
  • 年号については日本の歴史に記載があります。このページ最下部にはエクセルで作った表をのせました。クリックすると見えます。

数字の復習

  • 江戸時代1人当たりの年間消費量は玄米1石=150kg=100升。流通価格にすると≒金1両≒6000文。
  • 米沢藩の定めでは1人当たり1日米3.5合=0.35升。これは年間128升=3.65俵=1.25石に相当する。
  • 「漆の実のみのる国」の救済措置は (米24,525俵+麦24,000俵)÷3.65=13,300人年に相当する。
  • 紫雲寺潟干拓の記録からの玄米生産高は (2,550×1000kg) ÷ (1人当たり年間消費量 150kg)=17,000人分の収穫。これを1,674町歩=16,740反歩の田畑から得た。すべてが田圃ではなかろうが、仮にすべて田圃とすると、1人当たりの年間消費米生産に1反歩=0.001平方キロメートルの田地が必要。つまり、田地1平方キロメートルで千人を賄う勘定。
  • ちなみに現在日本の人口密度は337人/平方キロメートル。最高はシンガポールで7,612人/平方キロメートル。インド、イギリス、ドイツ、イタリア、ナイジェリア、中国、フランス、エジプト、アメリカ、フィンランド、ロシア、モンゴルは372, 260, 230, 202, 178, 141, 116, 82, 32, 16, 8, 2人/平方キロメートル。

海坂へ、鶴岡へ行ってきました 2005-05-08

  • 「あるかなきかのゆるやかな傾斜弧」は確認できませんでした。「花房町の小料理屋、涌井」に該当する料亭は本町2丁目にありますが、3層建てで立派過ぎました。「温海街道にそって上肴町、鍛冶町、大工町と町屋がつづくあたりのゆるやかな勾配」も起伏はあるものの、確認はできませんでした。総じて、お城の堀と桜並木にそれらしい風情が感じられる程度でした。やはり海坂藩は藤沢周平の世界にほかならないようです。
  • 街を歩いてみると、それなりに年配の、若者とはいえなくなった世代というぐらいの意味ですが、そういう二人づれの観光客がちらほら歩いています。何か自分自身を見ているような、こそばゆいような恥ずかしいような気分を味わいました。でも、若い人や家族連れも多いですよ。風がなく、夏は暑い地形だろうと思いました。
    • 冬の強風、地吹雪については鶴岡出身の方から聞いていますし、わたしもこどもの頃に地吹雪を体験していますので想像できます。
  • 今秋10月封切予定の映画「蝉しぐれ」のオープンセットを見てきました。鶴岡市街の東を流れる赤川を渡ってすぐに右折して土堤づたいに道なりに進むと、やがて羽黒町の松ヶ岡というところに行きます。所々に看板が出ていました。牧文四郎と小柳のおふくの(かや)()きの家があります。
  • 新潟からは国道7号線で150kmですが、片側1車線の道路しかなくて、思いのほか時間がかかります。大きく回り道して200kmほどの道のりをたどり、4時間以上かかりました。往路は鼠ヶ関の手前から東に折れ、国道345号線で山に入りました。木野俣、奥温海を経て、湯田川温泉に至ります。道は自動車のすれ違いができない区間が多いので、お勧めはできません。もう少し走って、鶴岡高専を過ぎたら現在の345号線(バイパス)には乗らずに、道なりに旧道(おそらく)を直進すると、小真木原公園を右手に見て北上し、上肴町にぶつかります。今度はもうすこしゆっくりと歩いて、夕方には温泉につかって一杯やりたい。
  • 目的のひとつは民田のなす漬を買うことでしたが、ありませんでした。
  • 暑いぐらいの快晴の日で、湯田川温泉やその付近の野原にはところどころに見事な八重桜が咲いていました。「時雨みち」収録の「山桜」を思わせます。
  • 井上ひさし氏は「蝉しぐれ」を読んで、「海坂藩城下図」を描きました。地図の制作をとおして、「蝉しぐれ」に4つの不合理ないし誤りがあることを発見したのですね。

海坂(うなさか)

  • 「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である。」
(『海坂』、節のことなど。「小説の周辺」収録)
  • 記憶に残る表現ですね。そして、海坂の風景が眼に浮かぶようです。詩でも歌でもない。ただの散文の平文です。これだけで文章になっている。時間と空間が、すーっとひとつに溶けあって見わたせるような心地がします。
  • 英語には翻訳できないでしょうな。でも、やってみるか。
  • Looking over the sea, one will see a gentle and wide arc of the horizon. The arc comes to reach the coast and goes across the field. The ground shows just-noticeable tilt. I remember they used to say Unasaka of the arc country. It sounds beautiful.
  • 「丘というには幅が膨大な台地が、町の西方にひろがっていて、その緩慢な傾斜の途中が足軽屋敷が密集している町に入り、そこから七万石海坂藩の城下町がひろがっている。城は、町の真中を貫いて流れる五間川の西岸にあって、美しい五層の天守閣が町の四方から眺められる。馨之介は、ゆっくり坂を降りて行った。」 (暗殺の年輪)
  • The west wing of the city is a tableland. It is too wide to be referred to as a hill. The tilt of the ground is little but long and continues to one of the residential areas for Ashigal soldiers. Beyond there, it is the central heart of Unasaka, a local kingdom of seventy thousand-Goku in rice harvest. The city spreads the other wing as well as its head and tail. The Gokengawa River flows through the downtown. At its west bank, there is a castle. The beautiful five-story tower of the castle is visible everywhere in the city. Keinosuke walked down a slope in slow steps.
  • 鶴岡から日本海を指して移動するとき、ほんとに傾斜弧を描く海坂の水平線があるだろうか。どうしても確かめてみたい。もっとも今では家並みが建てこんで見えないのかもしれませんが。あるいは、海辺に近寄れば、新潟あたりから山形県、秋田県へかけて日本海沿いのいたるところでこういう風景があるともいえます。
  • 小学生のとき、養泉寺さまの前にあった火の見やぐらに登ったことがあります。こどもが登ってはいけないことになっていたのですが、登ってみたくてたまらなかったのです。そのとき、地平線を見て、ゆるい弧が見えました。地球はほんとに丸いのかなぁという気がしました。
  • 温海(あつみ)街道にそって上肴町、鍛冶町、大工町と町屋がつづくあたりがゆるやかに盛り上がる勾配らしい。蝉しぐれの牧文四郎が、切腹させられた父の死骸を荷車に乗せて曳いて行く場面がこのあたりかという。鍛冶町口の大督寺から南になだらかな下り坂が2、3百メートルつづき、総穏寺で終わるとある。現在の国道345号(湯田川街道)のあたりと記している。(高橋義夫氏、「作品のふるさと鶴岡、米沢を歩く」(「藤沢周平のすべて」収録)による)
  • 確かに、ある。ふっくらした饅頭の頂上部のようなゆるい傾斜地形で、一方向性の坂ではありませんので、確かに特徴的な地形です。しかしまあ、家屋が建て混んでいること。はじめ、少し誤解してしまいました。湯田川街道が南北に走る道で、温海街道が東西に走るのですね。で、当然ですが、「現在の」というのは高橋氏が執筆当時の現在ですね。
  • しかし、牧助在衛門が切腹させられた龍興寺(実在の龍覚寺)は城の北東にあり、助在衛門の家は城の西だから、あの坂を通るには回り道しなければなりません。もっと別のところにあの坂があるのか、それとも単に地形モデルとして使われたのか、そのうち調べてみたい。
  • わたしには誤解があるようだ。週刊 藤澤周平の世界 というある意味、奇怪な全30巻の週刊誌?が発売されている。その創刊号が蝉しぐれの特集で、牧文四郎が引く大八車をおふくが助ける坂道など、道順が地図に示してある。わたしは高橋氏の記述だけを手がかりにしていて、誤解していたのかもしれない。もういちど海坂へ行く必要が出てきた。
  • 藤沢周平 お薦めページと2005年10月封切映画「蝉しぐれ」監督、黒土三男氏は「うなさか」について次のように紹介しています。
    • 「海境(うなさか)」 海神の国と人の国とを隔てるという境界(広辞苑)。
    • 「海境あるいは海界」 この世と海の彼方にある常世の国との境界をいう古い言葉(黒土三男)。
    • 古事記 上つ巻、豊玉姫神話のくだりでは「…海坂を()へて、返り入りましき」
    • 万葉集「水江の浦の島子を詠みし一首」巻九-1740では「…海界を過ぎて漕ぎ行くに…」

藤沢周平 関連サイトなど

  • 井上ひさし氏制作の海坂藩城下図収録図書
    • 文芸春秋編、「藤沢周平の世界」、文春文庫
    • 黒土三男ほか、NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝、NHK、2005年
    • 藤沢周平の世界展、世田谷文学館、2005年
  • 文芸春秋編、「藤沢周平のすべて」、文春文庫 には氏と作品によせた多数の小文と年譜があります。
  • 松田静子原案・佐藤武美原画、藤沢周平とその作品ゆかりの地図-鶴岡<海坂>版-、第5版、鶴岡書店、2002年
  • 江戸切り絵図にひろがる藤沢周平の世界、人文社、2004年

藤沢周平 作品リスト 

  • 出版順に羅列します。「信兵衛の読書手帳」さんの一覧表に従いました。太字は、とくに気に入ってる作品です。 わたしの No. 1 は「うろこ雲」です。
  • 食べものについては、カラゲ、栃餅、山兎、醤油の実などを除けば大概は昔のいなかの味として懐かしいなぁ。鰊は今でも大好きだし、雉のざくっとする歯ごたえも好きでした。スイカより真桑瓜が好きでした。松茸が登場しないけど、海坂にはあまりなかったのでしょうか。わたしは新聞紙にくるんで熾き(熱い灰)にもぐして蒸し焼きにして醤油をかけて食べるのも好きでした。
  • 「漆の実のみのる国」では越後鮭が登場しますが、わたしの家でも初冬には土間つき台所の天井から鮭とタラバガニが何十本もぶら下がっていた光景を思い出します。
  • 脱線ついでに、木の実など懐かしい味を思い出してみようかな。すか菜(道端に生える酢っぱ味のある草。いたずら小僧専用の外道)、いちご、さくらんぼ、桑子、あんず、梅、すもも、蓮の実、びわ、桃、瓜、ぐみ、木苺、梨、イチジク、ざくろ、マスカットとか葡萄いろいろ、柿(とくに真っ黒にこを吹く与三郎という銘柄が絶品)、あけび、栗、銀杏(ぎんなん)とか胡桃(くるみ)とか(これは少しニュアンスが異質な木の実かな)、・・・。
出版
順序
作品名(文庫本)収録作品、ほか。(かっこ書き)は料理の登場ページなど
65未刊行初期短編暗闘風の陣、如月伊十郎、木地師宗吉、霧の壁、老彫刻師の死、木曾の旅人、残照十五里ヶ原、忍者失格、空蝉の女、佐賀屋喜七、待っている、上意討、ひでこ節、無用の隠密。
(62) 濃く匂うお茶と干餅の菓子、(87) きんか瓜
1暗殺の年輪黒い縄、暗殺の年輪、ただ一撃、(くら)い海、(おとり)
2又蔵の火又蔵の火、帰郷、賽子(さいころ)無宿、割れた月、恐喝
3闇の梯子(はしご)(ちゃん)と呼べ、闇の梯子、入墨、相模守(さがみのかみ)は無害、(くれない)の記憶
4冤罪(えんざい)証拠人、(そそのか)す、潮田(うしおだ)伝五郎置文(おきぶみ)、密夫の顔、夜の城、(へそ)曲がり新左一顆(いっか)の瓜、十四人目の男、冤罪
5(はし)・志士雲井龍雄のはなし
6暁のひかり暁のひかり、馬五郎焼身、おふく、穴熊、しぶとい連中、冬の潮
7逆軍の旗逆軍の旗、上意改まる、二人の失踪人、幻にあらず
8竹光始末竹光始末、恐妻の剣、石を抱く、冬の終わりに、乱心、遠方より来る
9時雨(しぐれ)のあと雪明かり、闇の顔、時雨のあと、意気地なし、秘密、果し合い、鱗雲(うろこぐも)?
(257) (うり)
10義民が駆ける・幕命「三方国替え」に(あらが)った庄内藩の百姓たちのものがたり
11闇の歯車
12闇の穴木綿触れ、小川の(ほとり)、闇の穴、閉ざされた口、狂気、荒れ野、夜が(きし)
13喜多川歌麿女絵草子
14長門守(ながとのかみ)の陰謀夢ぞ見し、春の雪、夕べの光、遠い少女、長門守の陰謀
15春秋山伏記
16一茶
17用心棒日月抄(332) 大根の味噌汁。(434) 焼き魚、田楽豆腐、酢うど。
18神隠し(かどわか)し、昔の仲間、疫病神、告白、三年目、鬼、桃の木の下で、小鶴、暗い渦、夜の雷雨、神隠し
19消えた女-彫師伊之助捕物覚え-
20回天の門・志士清河八郎のはなし
21(はし)り雨贈り物、うしろ姿、ちきしょう!、驟り雨、人殺し、朝焼け、遅いしあわせ運の尽き、捨てた女、泣かない女
22橋ものがたり約束、小ぬか雨、思い違い、赤い夕日、小さな橋で、氷雨降る、殺すな、まぼろしの橋、吹く風は秋、川霧
23霧の果て・神谷玄次郎捕物控
24春秋の(おり) 獄医立花登手控え(一)
25孤剣・用心棒日月抄(38) 草餅とお茶、(216) 玉こんにゃくの醤油煮、(346) 大根の味噌汁に冷や飯を炊きこんだ雑炊、(347) しなび大根のぬか漬け、(348) 寒の(たら)、四月の筍。
26闇の傀儡(かいらい)師(上・下)
27隠し剣弧影抄隠し剣鬼の爪女人剣さざ波、邪剣竜尾返し、臆病剣松風、暗殺剣虎ノ眼、必死剣鳥刺し、悲運剣芦刈り、宿命剣鬼走り
28隠し剣秋風抄酒乱剣石割り、汚名剣双燕、女難剣(いかずち)切り、陽狂剣かげろう、偏屈剣(ひき)ノ舌、好色剣流水、暗黒剣千鳥、孤立剣残月、盲目剣(こだま)返し
(189) 鯛の刺身
29夜の橋鬼気。夜の橋。裏切り。一夢の敗北。冬の足音。梅薫る。孫十の逆襲。泣くな、けい。暗い鏡
30時雨みち帰還せず。飛べ、佐五郎。山桜。盗み喰い。(したた)る汗。幼い声。夜の道。おばさん。亭主の仲間。おさんが呼ぶ。時雨みち。
(73) いかの塩辛と藁つと*5にした干鱈。(257) (あじ)の干物
31風雪の檻 獄医立花登手控え(二)
32周平独言
33霜の朝報復、泣く母(くしゃみ)、密告、おとくの神、虹の空禍福、追われる男、怠け者、歳月
34密謀(上・下)・豊臣末期、上杉景勝に(つか)える直江兼続が主人公。
(67) 山うさぎの乾肉、塩漬けの初茸(はつたけ)牛蒡(ごぼう)大根の味噌煮。(137) 固焼きにした餅(わたしの田舎で「かたもち」という)。(下7) (きび)餅。
(129, 208) 新発田(しばた)城、五十公野(いじみの)城、赤谷城、支城の加治城、今泉塁、水原(すいばら)
35漆黒の霧の中で-彫師伊之助捕物覚え-
36愛憎の檻 獄医立花登手控え(三)
37よろずや平四郎活人剣(上・下)
38人間の檻 獄医立花登手控え(四)(35) 塩じゃけ、芋とこんにゃくの煮つけ。()うどの味噌和え。(183) たくあん。(298) 焼いた油揚げ
39刺客・用心棒日月抄(17) 焼いた小鯛(夏の終わり)、(52) 栃餅、(60) 青菜の漬物を肴に一杯、(180) たたき納豆、大根、干し菜の古漬け、(375) 菊(なます)
40龍を見た男おつぎ逃走弾む声、帰って来た女、龍を見た男、女下駄、遠い別れ、失踪、切腹。
(59-60) ごぼうと独活(うど)の味噌漬け、筍の甘煮でお茶漬けを食う
41海鳴り(上・下)
42風の果て(上・下)・真夏と初秋の「太蔵が原」を見てみたい.加治川流域がモデルではないかしら
(121) 焼いたするめ、たくあん、小茄子の漬物。(149) 大根の味噌汁、(163) 焼き味噌おにぎり、(185) 小鯛の塩焼き、醤油で味付けした口細カレイ、わたり蟹の塩茹で、里芋・干しぜんまいの煮つけ、小茄子・蕪の漬物、なめこの味噌汁。(240) 茹で栗。 
43決闘の辻二天の(あなぐら)(宮本武蔵)、死闘(神子上(みこがみ)典膳)、夜明けの月影(柳生但馬守宗矩(むねのり))、師弟剣(諸岡一羽斎(いっぱさい)と弟子たち)、飛ぶ猿(愛州(あいす)移香斎(いこうさい)
44ささやく河-彫師伊之助捕物覚え-
45白き(かめ) 小説長塚(たかし) 字面を追って読んではみたが、わたしには読めるしろものではない。
46花のあと鬼ごっこ、雪間草、寒い灯、疑惑、旅の誘い、冬の日、悪癖、花のあと。
(50) (ふき)のとう、つくし、よもぎの芽(草餅にする)
47小説の周辺
48本所しぐれ町物語・悪くない。味があるし、短編をつないで全体をつくる構成も新鮮だ。が、
49蝉しぐれ(230) かれいの塩焼き、青菜のゴマ和え、秋茄子の漬物。(363) 煮こごりのついた鱈の頭の煮つけ。 (434) 小牧屋の醤油味のせんべい。 (454) 冷や飯、そうめん。
50たそがれ清兵衛たそがれ清兵衛うらなり与右衛門ごますり甚内、ど忘れ万六、だんまり弥助、かが泣き半平、日和見(ひよりみ)与次郎、祝い人(ほいと)助八
(126) 朝食:小茄子の塩漬け、菊の花の酢の物、昨夜の塩鮭の残り物の焼き直し、賽の目に切った豆腐と青菜の味噌汁。 (148) 鮒の甘露煮。 (211) お茶と茶請けの漬け物、たくあん漬けと小茄子の浅漬け。
51麦屋町昼下がり麦屋町昼下がり、三ノ丸広場下城どき、山姥橋夜五ツ、榎屋敷宵の春月
52市塵(上・下)・六代将軍家宣(いえのぶ)(つか)えた新井白石のものがたり
53三屋清左衛門残日録(122) 花房町にある小料理屋「涌井」。青菜の漬物。(130) 小豆(あずき)の砂糖煮。
;(123) (ふき)のとうの味噌、(145, 358) 小鯛の塩焼き、(145) 筍の煮物。(360) 豆腐のあんかけ、(360) 山菜のこごみの味噌和え、(360) 賽の目に切った生揚げを一緒に煮た筍の味噌汁(酒粕(さけかす)も使う。筍は孟宗竹らしい)、(360) 山ごぼうの味噌漬け。
;(189) 梨、(291) 真桑瓜(まくわうり)。(270) (かぶ)の酢の物、民田の小茄子(なす)の浅漬け、金頭(カナガシラ)の味噌汁、梅干をそえた白粥。
中秋;(193) 蟹の味噌汁、(195, 297) クチボソカレイの塩焼き、風呂吹き大根、(297) 赤蕪の漬物、(304) 豆腐汁。菊の酢の物。
晩秋・初冬;(407) (ます)の塩焼き、(298, 407) ハタハタの湯あげ(大根おろしと醤油で食べる)、(407) 風呂吹き大根のしめじ添え、(407) 茗荷(みょうが)の梅酢漬け。(408) ハタハタの田楽、ぶりこ(ハタハタの卵)。(413) 寒の(たら)汁。(318) なめこ汁。
54玄鳥玄鳥三月の(はや)、闇討ち、鷦鷯(みそさざい)、浦島
55凶刃・用心棒日月抄(52) 煮魚、豆腐の味噌汁、里芋の煮つけ。(69) 筍、山菜、(にしん)、小鯛。(70) みょうが汁、みょうがの紫蘇漬け。(155-156) 唐チサの胡麻和え、餡かけ豆腐、醤油の実(醤油のしぼり(かす)(こうじ)と塩を加え直して発酵させ熟成したもの)、身欠き(にしん)の焼き魚、干し若布(わかめ)の味噌汁、カラゲ((えい)の干物。水でもどして甘辛煮)。 (254) 干しぜんまい、梅干。 (318) (たら)の素干し((ほお)肉)。 (331) 焼いた塩鮭、漬け物でお茶漬け。 (398) (はまぐり)ともずくの吸物、焼いた今年の鮭、大根おろしを添えた枝豆、つぐみの焼鳥(骨つき)、(がん)(かも)(きじ)などの鳥料理。
・先日食べた鶴岡のお店ではカラコと言ってました・・・。酒田ではカラカイというようですが、これを聞き違えたのかもしれません。
56天保悪党伝蚊喰鳥(かくいどり)、闇のつぶて、赤い狐、泣き虫小僧、三千歳(みちとせ)たそがれ、悪党の秋
57秘太刀馬の骨
58夜消える夜消える、にがい再会、永代橋、踊る手、消息、初つばめ、遠ざかる声
59半生の記
60ふるさとへ廻る六部は
61日暮れ竹河岸江戸おんな絵姿十二景、広重「名所江戸百景」より
62漆の実のみのる国(上・下)・米沢藩主上杉治憲(はるのり) 鷹山(ようざん)のはなし
(111) 越後鮭の塩引(村上市三面川あるいは荒川の鮭。米沢に直結するのは荒川)、口がひん曲がるほど塩からい大根の味噌漬け、(114) 米沢の地酒。
(81) 竹俣(たけのまた)当綱(まさつな)家、城は加治の東南、虎丸村にあった。(加治も虎丸も現在は新発田市。両地の間には加治川が流れている。虎丸は川東地区の一集落。)
(下39, 185, 187) 越後関川、下関の渡辺家(渡辺儀右衛門、渡辺三左衛門、渡辺万之丞)
63早春 その他深い霧、野菊()り、早春
64静かな木岡安家の犬、静かな木、偉丈夫

「さか」という言葉について

  • 三浦佑之氏がさか(三浦佑之)でつぎのように解説している。
    • 接点としての坂 『出雲国風土記』出雲郡の「脳の磯」の西にある洞窟(今、猪目の洞窟とよばれる)は、「夢に此の磯の窟の辺に至れば必ず死ぬ」と人々に恐れられているところだが、それは、夢が魂の浮遊と幻想され、窟の夢を見るのは自分の魂がその洞窟に吸い寄せられているからだと考えられているからである。その窟は、もともと洞窟葬に用いられた場所だったらしいから、魂がそこに近づくということは、死の世界に引き寄せられていることを意味したのである。人々は、その洞窟を「黄泉の坂・黄泉の穴」と呼んでいた。洞窟(穴)は、異郷と地上との出入り口であった。昔話「鼠浄土」のネズミの国に通じている穴も同じである。そして、「黄泉穴」は「黄泉の坂」とも呼ばれていたのだから、<坂>という言葉は、異郷への出入り口としての<穴>と同じ意味をもっていた。『古事記』の黄泉国神話や根国神話にでてくる「黄泉比良坂」のヒラは、地形としての崖をあらわすことばだから、<坂>が単に傾斜した道という地形的な意味だけをもつことばではないということは明らかで、そこには、異郷と地上とを繋ぐ接点といった意味が強いのである。
  • なるほど、そう考えると、大阪(大坂)という地名の由来が納得できるような気がしますな。
  • 海坂 ワニになって子を生む姿を覗き見られて恥じた海神の女豊玉比売(ひめ)は、「海坂を()へ」て帰ってゆく( 古事記) 。この<海坂>も、ワタツミ*6の国と地上との通路「海つ道」の途中にある出入り口を指す。そのことは、浦島子をうたった長歌に、「……堅魚(カツオ)釣り鯛釣り矜り 七日まで 家にも来ずて 海界を 過ぎて漕ぎ行くに……」(万葉集、巻9・一七四〇)とある<海界>をみてもわかるだろう。そこが傾斜した崖のような所(いわゆる坂)であるならば、小舟で漕いでゆくことなど不可能であったに違いない。
  • これも浦島伝説のひとつか。

江戸時代の時刻制度とか?

江戸時代の貨幣と米穀価値など?

青江又八郎の経済

  • 用心棒日月抄「娘が消えた」(p.49) には1両で米1石が買えるとしている。
  • 昼夜2食付、3日で一分の手当てで、8月はじめから9月はじめまでの1ヶ月間、長江長左衛門こと堀部安兵衛の道場で「代稽古」をつとめた。二分の上乗せの褒美ももらったので、しめて3両の収入。決して安い手間賃ではなかろう。
  • 10月25日から川崎の平間村「内蔵助の宿」では大石内蔵助の警護を担当し、11月5日に日本橋小田屋に落ち着くまで勤めた。1日二分という上等の手間賃で、10日で5両の収入だ。
  • 「吉良邸の前日」では12月14日を明後日と記し、賄い付き1日一分で吉良家に雇われて10日あまりと書いている。「2両なにがしの金で正月を迎えるというわけにもいかんだろうが、これでひと息つける」と同僚の細谷が云っている。
  • 金1両=玄米1石(=150kg)=6,300文の時代。1石は1年弱相当の飯米個人消費量だ。江戸は消費都市で物価も高いわけだけれども、12月はじめに吉良家の用心棒に雇用されるまでの一月足らずの間に、借金の返済があったかもしれないが、5両の金を消費して、粥2食分の米しかなくなったというのはいかがな具合かなと思う。
  • もちろん余りに細かい数字は小説ではつかいにくいだろうし、そういう時代考証の必然性はないわけで、単なる藤沢周平ファンの妄想娯楽です。
  • 元禄期、金1両=銭貨4,000文。1朱=250文。孤剣(用心棒日月抄)p. 351 では地震による小田原城損壊に対する緊急対策費として城主、隠岐守が幕府から15,000両の借金をして帰国した。 p. 360 では地震被害の後片付けの日雇い人足の手間賃の相場が300文と書いている。これで計算すると、日雇い人足でも13日ないし半月で金貨1両を稼ぐことができる。15,000両は7,500人月の人足労賃にあたる。これでは、城の修復費用としては材料費も考えれば、不足すぎはしないか。
  • (刺客 用心棒日月抄、p.77)谷口権七郎は又八郎に30両の金をくれた。つましくやりくりすれば半年は十分に暮らせる金だとある。で、このうち10両を家に残し、細谷のご新造の病気見舞いに5両をつかい、路銀と暮らしのもので、手元に10両そこそこしかなくなったという。

越後揚北

  • 密謀(豊臣末期、上杉景勝に仕えた直江兼続のはなし)に「揚北」という地域名称が登場するが、読みが分からない。
  • 上巻 p. 208, 253とかに登場する。たとえば、天正十五年八月二十三日、景勝は大軍をひきいて春日山から越後揚北に進攻した。・・・時をあわせて北からは色部長真、本庄繁長の軍勢が南下し、揚北の平野は戦塵につつまれた。
  • p. 130 には本庄(村上市)の本庄繁長、平林(岩船郡神林村,村上市の南)の色部長真とある。
  • 揚北は新発田、五十公野を中心とする北蒲原を指している。
  • 阿賀(むかい)という呼称がある。
  • 揚北とは阿賀野川北部、つまり、阿賀北(あがきた)ではなかろうか。
  • 阿賀野川北部の北蒲原と南部の新潟市では積雪量など、気象も大いに異なり、区別して呼称するに足る差異がある。川幅は1kmもあり、橋のない時代には異なる風土があっても不思議でない。また、大昔には「沼垂の柵(渟足柵(ぬたりのき) . 日本書紀. 大化3年、西暦647年)」を境に阿賀野川以北は広義の「蝦夷」でもあった。

「揚北」はやっぱり阿賀北

  • 小松重雄「一生不犯異聞」,光文社文庫「のらねこ侍」291-292頁では次のように記載している.
  • ・・・揚北(あがきた)の国人衆・・・
  • ・・・揚川(あがのがわ)(阿賀野川)以北の連中が特に扱いにくく,この連中(揚北衆と呼ばれていた)は・・・
  • ・・・揚北衆の国人たち,すなわち斎藤,毛利,中条(なかじょう),黒川,加地(かぢ)竹俣(たけのまた),安田,五十公野(いじみの),新発田,鮎川,色部,本庄ら・・・
  • ローカルな地名もしくは武家豪族名の順序に特段の意味があるとも思えないが,記載順序における安田の位置に違和感がある.斎藤,毛利は知らないが,栃尾など南から阿賀北という北を見てゆくなら,安田,新発田,五十公野,竹俣(虎丸),加地(加治),中条,黒川,色部(旧 岩船郡神林村平林駅東側に平林城),本庄(村上市の臥牛山に本庄城村上城),鮎川(旧 岩船郡朝日村大場沢の大葉沢城)という順序かな

  ・・・ 

映画 『小川の辺』  2011年初夏公開。

  • 監督 篠原哲雄。
  • 主演 東山紀之(戌井朔之助)。ヒロイン 菊地凛子(田鶴。佐久間森衛の妻で,朔之助の妹)。
  • ほか,片岡愛之助(新蔵か),尾野真千子,松原智恵子,笹野高史,西岡徳馬,藤竜也。
  • 原作は文庫本「闇の穴」収録の短編「小川の(ほとり)
  • http://www.cinemacafe.net/news/cgi/release/2010/09/9154/

映画 「必死剣鳥刺し」  2010年7月10日公開 

  • 監督 平山秀幸,主演 豊川悦司(兼見三左エ門),池脇千鶴(里尾),主題歌 「風に向かう花」 (歌手 alan, 中国四川省出身)

映画「花のあと」2010年春公開

NHK総合テレビ 2008年12月20日(土)午後9時~10時27分

  • 時代劇スペシャル「花の誇り」
  • 【原作】藤沢周平「榎屋敷宵の春月」(「麦屋町昼下がり」所収)
  • 【脚本】宮村優子
  • 【音楽】遠藤幹雄
  • 【演出】吉村芳之(NHKエンタープライズ)
  • 【出演】瀬戸朝香 酒井美紀 田辺誠一 山口馬木也 葛山信吾 大谷亮介 松金よね子 遠藤憲一 石橋蓮司 ほか

映画「山桜」

  • 2008-06-07 観た。せりふが少ない映画です。東山紀之さんのせりふなんか、二言、三言です。
  • 文庫本で20ページの短編を2時間弱の映像に表現しています。
  • 主演は田中麗奈さんと東山紀之さん。篠原哲雄監督。2007年4月ロケ開始。
  • 2008年4月中旬に山形県内で“先行上映” http://pub.ne.jp/shiraho4353/?entry_id=1195433
  • 参考リンク:庄内映画村

2007-09-20 「腕におぼえあり」NHK BS2再放送

  • 先日中国出張中テレビのチャンネルを繰っていたら「用心棒日月抄」を原作としたドラマに遭遇しました。1992-1993年NHK制作の「金曜ドラマ」の再放送らしい。詳しくは『ウィキペディア(Wikipedia)』

2007-02-23 「隠し剣 鬼の爪」テレビ放映

  • 山田洋次監督、出演 永瀬正敏、松たか子、吉岡秀隆、田畑智子、倍賞智恵子、田中邦衛、緒形拳、小林稔侍ほか。音楽 冨田勲。新潟では29チャンネル、TeNYで 21:03-23:39。「隠し剣鬼の爪」と「雪明かり」の2作をミックスした映画。

2006-12-09 「藤沢周平 未刊行初期短編」

  • 文芸春秋社より刊行された。未読の藤沢周平作品が手に入り、うれしい。早速ひとつ読んでみた。やっぱり、いい。もっと読みたいが、読んでしまうと愉しみがなくなるし・・・
  • とうとう読んでしまった。

鱗雲(うろこぐも)」を映画で見たい

映画 武士の一分(いちぶん) 2006年12月1日(金)公開

  • 『たそがれ清兵衛』、『隠し剣 鬼の爪』に続く山田洋次監督の時代劇。音楽は富田勲。原作は『隠し剣秋風抄』の「盲目剣(こだま)返し」。出演: 木村拓哉、檀れい、笹野高史、桃井かおり、坂東三津五郎、緒形拳、小林稔侍、ほか。 他のリンク http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD9664/index.html
  • 2006-12-10 見てきました。映像が軽いタッチで、原作に忠実に作ってありました。あんなに短い話が2時間の映像になっても、気がついたら終わりでした。山田洋次監督ならではの工夫も随所にあります。

*1 単純に加治,黒川,大櫛山,民間資金という4つの対応が成立する確率を考えてみましょう.モデルも何もないという数学的前提では,極めて確率の低い事象となります.
*2 大正4年に大正天皇即位を記念して植栽された加治川の長堤十里の桜並木が、昭和41年の連続大水害により崩壊して以来、多くの人達から桜づつみの復元の声が高まり、平成元年国に「桜づつみモデル事業」として認定を受け、名勝の復元が進められています。「加治川長堤十里の桜並木」は日本一、世界一ともいわれました。今では、「加治川を愛する会」、「加治川桜堤復元市町村連絡協議会」の主催で「加治川クリーン&ウォーク」として加治川沿いの2千本の桜を楽しんで歩きながら清掃活動を行っています。http://shibata-info.jp/kanko 
*3 【復習】 築堤水路=井沢の紀州流ではない.当該流域において最高地を水路とすることが極意.
*4 天保4年、1833年のことか
*5 (つと)。稲藁で作った筒状の包装。晩秋に大豆を茹でて藁の苞っこに入れて、砂にもぐしておくと、冬には納豆が出来ていた。稲藁の自然の納豆菌の作用らしい。冬の朝、納豆を雪の下から掘り出しに行かされるのは寒くて、いやだった。「もぐす」という言葉は方言かもしれない。埋めるの意(他動詞)。自動詞は「もぐる」。もぐらなら誰でも知っているのに、変ですね。
*6 海神。「つ」は「の」の意の格助詞。「わた」は海、「み」は霊・神の意。「わたつみの沖つ白波立ち来らし海人娘子ども島隠る見ゆ」など(万葉集)

Front page   New List of pages Search Recent changes   Help   RSS of recent changes
Last-modified: 2014-07-29 (Tue) 20:44:13 (1594d)